山中薬師本堂

眼病に霊験があるお堂。その昔、お堂のそばに池が有り、その池の水で目を洗うと眼病がなおったという伝説があり、それから眼病を患う参拝者が訪れるようになった。 また、お堂の中には江戸末期の作の仁王像が安置されており、文化財として地元の人々に大切にされている。

☆アクセス
JR石岡駅西口バスターミナル 1番のりばから関東鉄道バス水戸駅行き利用、「先後(まつのち)入口」バス停から徒歩約20分(約900メートル)

本堂内

普段は閉じている本堂の内部を特別に開いていただきました。
内部には如来像が鎮座されています。

仁王像

市の指定文化財として登録されています。
江戸時代末期の先品とされ力強く、迫力があります。

お薬師様のあらまし

山中薬師堂補運動のあらまし、思い出について市内に居住する方よりお話を伺いました。
(話の内容は個人の見解や諸説の内の一説であることを予めご了承ください)


小幡法円寺の末寺として西郷地内に山中山皇諦寺と薬師寺とがあった。
共に境内は同一地内で旧国道西郷地端れ、百米程東に入ったところである。
正面が薬師寺、その手前五十米位のところに両寺の仁王門があった。その門を入り、すぐ左に皇諦寺があったが現在は両方ともない。
仁王門跡は塚のみが残っており土台石が二つ三つあるのみ、光圀、斉昭公時代の佛教製作またその後の明治四年頃行われた寺院等の整理により廃寺となり、かつて隆盛を極めたこの寺も無住となり檀家も去り金くの荒れ放題となった。
間口十二間半、奥行き六間茅葺ぶき屋根を伝えられた大本堂は明治十年より十五年まで、西郷地小学校として近村の子の教育の場として返り咲いたが学校制度の改正により廃校となり、また無住の寺となった。

この建物も明治末期まで存在していたが火災の難に会い、仁王門と共に消失してしまった。
この火災のため寺の宝物類は全部焼いてしまったが、仁王様の二体だけは幸いにして持ち出すことができ、難を逃れた。
仁王様は今も薬師堂内に安置してあるが、その彫刻、その容姿威風堂々たるものである。作者は不明だが、県下にも珍しいくらい力作であるとの評がある。
彫刻者名は体内に記入されていると言うが誰も見たことはない。

本堂も水戸吉田の薬王院と同型のものであり、建築は享禄時代であろうと言われている。
薬師尊は目の仏様として信仰されており昭和初め頃まで平日でも参拝者が多かった。
縁は(お祭り)四月八日と六月二十一日で、四月八日はお釈迦様のお祭りで大分にぎわった。六月二十一日は薬師様のお田植祭りで夜の祭り、参道百米位の両側に提灯や行灯等歌を書いたり、絵を書いての奉納が実に見事であった。
その間に露店が並び、境内では万灯を立て近郷近在の老若男女が夜明けの頃まで踊りに踊った。

薬師尊境内入口に土橋があり、それを渡ると左側に大きな池がある。明治の初期ごろまでは御影石の太鼓橋であったそうだが、今はその名残に橋材の石が五、六本あるのみである。

池の水が橋の下を流れた期となって落ちる、その滝も六尺位、行僧、荒行僧が集まり水かぶり修行をしたとの説をよく年寄り達から聞かされた。
下の池は、畳十丈敷位で御影石に敷かれており昔の言い伝えその を物語っている。
当時はこの辺一帯が政府所有の山林で数百年を経た大木が茂り仄暗い森林で、政府の禁伐管林とかで士族の山廻りが居たそうである。その面積は数百歩を越え、それ故に山からの水が薬師様の池に落ち、いつも青くその神秘さがすごく淋しさあり静寂さあり壮厳さあり、本当の信心者でなければ参拝するのも寂しかったとのこと。
昼なお暗き薬師の池は心という字に掘ってあると伝えられているが大体その方は今も留めている。
誠の心を以てもない。
下の池も五十年位前、村人で掘ったことがあったがそこの石畳には驚いた。当時の修行を思い出させる貴重な文化財である。
お堂の前の池の足場の所には「め」と書いた布巾や牛拭い等が沢山奉納され、また目の治った方からの大願成就と書かれた六尺位の旗が奉納されていた。またこの池の魚は皆片目であるとか、誠の心込めての祈願を聞き入れた薬師尊は眼病の全快を魚に託したとのこと、眼病全快者からの魚の奉納もだいぶあったという。
さて正面の薬師堂の鰐口を鳴らして戸を開き中に入れば西側に仁王像が鎮座に成り、正面中央部には菊御紋が黄金を放ちヒヤッとする。堂内の空気が全身に伝わり霊感体中を震わし堂内に入りし者は、善悪人を問わず無我の境地に入る。更に正面祭壇の扉を開ければ薬師如来の光背、黄金に輝き昔日の隆盛のさまを物語っている。
この光背の前にあるべき薬師如来の本尊様は光背から推定して大体等身大、五尺二・三寸であったろう。とに角、光背だけでご本尊のないのが非常に残念である。
何十年か前、一人の旅僧が立寄り本尊様の無いのを憂い、無住のため自分の背負ってきた佛僧を納め、朝夕のお務め村の人との交流をし長い年月寺の守りをしたそうだが老衰のためこの地で亡くなっている。
その坊さんのいる間は安置した佛像は見ることができなかったが死後法円寺本寺様読経により箱を開けたところ薬師如来尊で、この像を本尊様として納めた。この佛像は運慶の作と言われている。
薬師如来尊は外出不出とかで開帳はしなかった。一緒に釈迦如来尊も祀ってある。
薬師本堂の南側に直径十五米高さ二・五米の円型の塚がある。薬師如来及び皇諦寺開山初代の高僧の墓である。
またその塚には鐘桜があったとかで、この塚のことを鐘突き堂ともいっている。だいぶ大きな鐘があったそうだが水戸藩の大砲鋳造のため供出されたという。
薬師堂にお参りし、鰐口の鐘を鳴らし、その周辺を尋ねるとき、年寄りから昔聞いた話や、大正、昭和の初期の頃が時々浮かんでくる。
子どものころ薬師前に戸板を置いて駄菓子を売っていたお婆さんがあった。お茶も準備し旅するひとのために心のこもったお茶であった。その頃の駄菓子は本当にうまかった。現在どんなものでも自由に食べられる時代であるが、その頃の駄菓子の味に勝るものはない。
所在地 小美玉市西郷地3−2
駐車場 なし(空き地有)
その他備考等 拝観料 無料・拝観自由

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